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終わりのある教育と終わりのない教育



 小学校で不登校になった子に対して、どんなに教師が真摯に向き合ったとしても、その子が中学生になれば、職制上での義務はなくなります。それでも気にする先生はいるでしょうが、新たな問題が次々と生まれてくるのが仕事というものですから、いつまでも卒業生のことは気にしていられない。

 これは中学校で不登校になった子の教師に対しても、高校で不登校になった子の教師に対しても言えます。たとえ教師自身がそれをよしとしていなくても、彼らがやってるのは「終わりのある教育」です。教育サービスというのは時限性があるのです。

 終わりのある教育の世界(=学校)で途中下車した子たちはどこへ行くのか。このことを地域社会はもっと気にかける必要があります。

 生徒を不登校にさせてしまう指導力不足の教師も確かにいる一方、どこまでも手をさしのべようと懸命な先生も確かにいます。たとえば釧路自主夜間中学「くるかい」でボランティアスタッフを買って出ているかたの多くは教師だったり元教師だったりこれから教師になるかただったりします。自主夜間中学は時限性をもちません。生徒たちとのかかわりはエンドレスです。

 かれらは「終わりのない教育」にみずから志願して立ち向かっているのです。こういうかたをのみ、私(影)は「先生」と呼びたい。ボランティアとは本来「志願兵」という意味です。

 教育問題における安易な教師批判は避けなければなりません。と同時に、先生という仕事は確かに聖職ではあるけれども、「終わりのある教育」を聖域だと考えてはいけない。現実に改善すべき課題が目に余るようになってきており、しかも「終わりのある教育」界の力だけでは解決不能の場合が不登校問題に限らず結構ある。

 地域の企業を含む地域社会はもうひとつの「終わりのない教育」界です。「終わりのある教育」界はいまこそ「終わりのない教育」界に助けを求めるべきではないか、と思います。

 本会の提言書が「終わりのある教育」界を助ける原動力になればと、祈るばかりです。(影)

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