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facebookページより 20111011-4

社会教育と学校教育の分離と収斂

 こむずかしいタイトルで恐縮です。

 ポール・ラングランが唱えた生涯教育(リカレント教育)は、職業人のキャリアアップに応えられる学習社会を作ろうという趣旨だったと、私(影)は思っておりますが、日本では高齢者の生きがい対策による保険料対策に堕してしまったといわれても仕方のないいびつな発展(=生涯学習)をしてきました。それが経済の悪化に伴い、お稽古ごとや生きがい対策に税金を投入していられなくなり、近年失速が著しい。ところが、労働政策としてのキャリアアップ機会がここにきて急伸しています。皮肉なことではありますが、ラングランの理念は日本でもやっと低レベルながら実現しつつある、といえます。
...
 これは、かつて、(参加する行政職員数や予算額の点で)巨大な「学校教育」に比して著しく卑小だった「社会教育」という図式が崩れつつあることを示唆しています。もともとラングランの生涯教育の概念は日本流の生涯学習よりははるかに社会教育に近いものでした。ところが社会教育が生涯教育たりえなかったのは、学校教育へのコンプレックスから、自己満足的な事業推進に終始したからです。(例:人口20万人の都市に対して、受講者20人の講座をやって満足)

 しかし現在社会では、国の雇用期間を中心に、いったん社会に出た人を対象に、キャリアアップの講座機会をこれでもかとばかり展開しています。ラングランの場合社会全体を引き上げるための個人の能力向上を想定していたふしがありますが、日本では失業対策です。しかし、それでも名ばかり社会教育よりは数倍ましです。

 この結果、徐々にでありますが、雇用対策の皮をかぶった一種の生涯教育が勢力を台頭させてきて、今後学校教育に比肩する位を占めることになる可能性が高まってきました。義務教育に対する勤労観教育(キャリア教育)の本格的な導入(文部科学省)政策がその一面を浮き彫りにしています。いや、比肩する位というよりは、相互に連携する立ち位置を占めるというべきでしょうか。

 教育の継子扱いであった社会教育が、生涯教育を唱えて間もなく生涯学習に劣化し、それがいったん終末を迎えると同時に灰となった屍から不死鳥のように失業対策というリカレント教育に化身してよみがえってきた。社会にとってそれは不幸なことかもしれませんが、長い目で見れば歓迎すべきでしょう。やっと本来の姿に戻れるかもしれないからです。

 人は死ぬまで学び続けなければならない。それは、趣味のためではなく、社会を形成するためです。お稽古ごとではなく、この社会を次代に継承するために人は生涯、あらゆる学びを継続する。それは学校教育で基礎を据え(据えられなくなってきたからこのページが生まれたわけではありますが)、それを生涯教育で大きく育てられる社会をつくることを意味します。

 やっと生涯教育は(残念ながら生涯学習セクションではなく、国の雇用セクションの力により)存在意義を回復させようとしています。次は生涯教育の要求(=職業教育するんだから、読み書きそろばんは最低限身につけておけよ)に応えられる人材を、学校教育がきちんと排出する番です。20万人の中の20人だけを育てるのではなく、20万人の中の20万人を育てることを、ひるまぬ心の目標としていただきたいと願います。(影)

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